Masuk「全然いいよ。忙しければどこかで買ってきてもいいし、それに、徐々に敬語もやめろよ。落ち着かない」
「古都、家の中を案内する。俺もまだ全部は確認していないから、一緒に見て回ろう」
廊下に出てすぐの部屋は秋久の書斎兼ワークスペースで、扉を開ければ機能的なデスクと整然と並んだ資料が目に入る。
「俺の仕事は時差の関係で夜に入ることも多いから、その時は古都を起こさないようにするからな」
線を引かなければならないと必死に思い、敬語で距離を保とうと意識していたのに、それが必要ないとあっさり告げられてしまうと、途端にどう話していいのか分からなくなり、言葉を探す自分が滑稽に思えた。
言葉遣いばかりに気を取られていたせいで、秋久の真意を理解するのが少し遅れ、別々の部屋で休むのにどうしてそんなことを言うのかと尋ねようとした瞬間、彼は私の戸惑いなど意に介さぬように次の扉を開け放った。
「ここが二人の寝室だ」
「古都?」
「二人の……?」
視線の先には、真新しいキングサイズのベッドが堂々と置かれ、バスルームまで備えられた部屋は一流ホテルを思わせるように高級な家具で整えられている。けれど問題は調度品の豪華さではなく、明らかに「二人の寝室」として用意されたその空間と、何よりもベッドが一つしかないという事実で――私は困惑の渦に巻き込まれていった。
「何かおかしい? まさか別々に寝るつもりだったのか?」
「もちろんそう思っていましたが……どうして一緒に?」
「結婚するからだよ」
「決まりだからな」
「ここが古都の部屋だ。クローゼットの中には必要なものはすべて揃えておいた。足りないものがあればすぐに言ってくれ」
そう言いながら秋久が壁際の大きな木目の引き戸を滑らせると、その奥には人ひとりが住めるほどの広々としたスペースが現れ、整然と並べられた洋服やドレス、バッグに靴までもが揃えられていた。さらに引き出しを開ければ、ご丁寧に下着に至るまで用意されており、あまりのことに私は言葉を失った。
呆然と立ち尽くす私の背後に、いつの間にか秋久がぴたりと立ち、耳元に唇を寄せるようにして低く囁いた。
「サイズが合わなければ交換させるから。俺が選んだんだ、ちゃんと着けろよ」
くすりと笑うその声音に、とうとう胸の奥に溜め込んでいた怒りが爆発した。
「バカ! 秋久、何考えてるのよ!」
ただ利用されるためだけの結婚なら、こんな真似などしてほしくないし、馴れ合うつもりも毛頭ない――そんな思いを込めて吐き出した言葉に、次の瞬間、秋久は私をクローゼットの中へと押し込み、壁に縫い止めるようにして身を寄せた。
「古都と暮らすことを考えてるよ」
アーモンド色の瞳に真っ直ぐ射抜かれ、私は拒絶することも、言葉を紡ぐことすらできず、ただその視線に囚われてしまった。
「リサ……どうして?」俺の問いに答えたのはリサではなく、書類から視線も上げずに口を開いた山脇だった。「呼びました」「なぜ?!」今ここにリサが来る必要などないし、万が一こんなところをマスコミに撮られでもしたら、どうするつもりなのだ。「私も山脇も同じ気持ちなのよ。秋久にとって最適なことを、山脇はしたいだけでしょう?」クスっと笑うリサは、今日も完璧な服装とメイクで、慣れた手つきでサングラスを外す。「最適なことをしているつもりだ」そう返すと、リサは俺のすぐ横に腰を下ろし、わざとらしく小さくため息をこぼした。「あなたらしくないわね。今まで仕事のため、お父様を見返すためなら何だってしてきたのに」その言葉に、山脇も同意するようにゆっくりと頷く。「軽く見せて、適当にしているように見せて、周りに侮らせるやり方をしてきたのは知ってるけど……結婚までそうすることはないんじゃない?」リサはそう考えているのだろう。大企業の御曹司という立場は、嫌でも親の七光りだのコネだのと言われがちで、それならばそれでいいと割り切ってきたし、愚かな二代目と思われることさえ、相手を見極める材料にしてきた。その結果、ヨーロッパ進出を確実なものにし、相応の人脈と力も手に入れてきたが、その矢先での今回の結婚という選択だ。リサと山脇が言いたいことは、もちろん分かっている。その先は、キスをしていたことを指しているはずだ。山脇には契約だとはっきり言ってあったし、指輪だってあんなきちんとしたものを贈る理由などないと思っているはずだ。俺の心の奥を見透かしているのかもしれない。「冷静になってください。あなたはただの男とは違うんです」その丁寧な言葉遣いの中に、嫌でも自分の立場を思い知らされた気がした。「今度のパーティはあの子を連れて行ってもいい。でも、そのあとは関係は解消してもらうわ」リサは、まるでそれが決定事項だと言わんばかりにそう言った。「秋久、恋だの愛だのに振り回されるのはやめなさいよ」リサは俺の顎に触れると、今にも唇が触れそうな距離まで間を詰めてくる。「やめろ。お前と俺はそんな関係じゃないだろ? それに、愛や恋は必要ないんじゃないのか?」冷たく言うと、リサはキュッと唇を噛んだ。「愛なんかじゃないわ。欲求よ」そう言うと、リサはサングラスをかけて、扉の方へと歩き始めた。「
「どちらまで行かれますか?」 タクシーの運転手に行き先を告げながら、私はふとため息をついた。あのキスはなんだったのだろうか、なんて悩んでいた自分を呪う。もしかして、そんな期待をしてしまった自分は、どれほど愚かなんだろう。今頃、秋久はリサさんと……そこまで思ったところで、胸が締め付けられそうになる。ただの仕事、そう思ってきていたのに、秋久と過ごす時間や触れる手のぬくもりを知ってしまい、自分の中でやはり彼は特別になってしまっていたのだ。だからこんな結婚はするべきじゃなかったのに。いくら父の命令だからと言って、こんなことを……。気付くと涙が零れ落ちていて、自分の愚かさと惨めさで心がすさんでいく気がした。これからどうやって秋久と一緒にいろというのだ。仕事のためだとは理解していたが、現実を突きつけられ、私は感情がぐちゃぐちゃだ。ミラー越しに運転手と目が合い、泣いている私を心配しているような瞳とぶつかった。スマホが震える音がして、画面を確認すると秋久からのメッセージだった。「ちゃんとタクシーに乗ったか? 電車で帰ってないか?」私の行動を気にかけるその言葉に、心が少しだけ温かくなると同時に、胸が締め付けられるように苦しくなる。 これ以上優しくしないでほしい。これ以上、私を惑わせないでほしい。「……大丈夫です。無事にタクシーに乗りました」 簡潔な返事を送った後、画面を閉じる。タクシーが自宅前に着くと、私は料金を支払い、軽く礼をして車を降りた。秋久はいつ帰ってくるのだろう。リサさんと会ったことなどもちろん話せないし、私は普通に振る舞えるのだろうか。そう思いながら、私はさっとお風呂に入り、眠る準備をしてベッドにもぐりこんだ。秋久は今日、帰ってくるのだろうか。出張を除き帰ってきていたが、今はあのホテルにリサさんと一緒にいる。考えたくない想像が頭をめぐり、眠ってしまおうと思ってもなかなか眠れない。諦めてスマホを手にしたとき、メッセージが来ていたことに気づいた。今日はこのホテルに泊まる――。どうして? 今日は帰ってきてほしかった。それが素直な気持ちだった。秋久と会うと、自信満々で美しいリサさんを思い出し、私はその日、朝まで眠れなかった。このまま、秋久と結婚生活を送っていけるのだろうか――。とりあえず、パーティーに出て、秋久の仕事が終わったら、
エレベーターの扉が閉まると同時に、私は唇に触れる。あのキスはなんだったのだろう。ただの契約結婚。それなのに、どうしてこんなに心が乱れるのか分からない。秋久が近くにいると、胸がざわめく。優しくされるたびに、切なくなってしまう。それを知られるわけにはいかないのに、最近はその気持ちをうまく抑えられなくなってきている。いつのまにか一階に着いていて、開いたエレベーターのドアに気づき、私は急いでエレベーターから降り、エントランスへと差しかかった、そのときだった。前から歩いてくる人影に、ふと視線を上げる。――リサさん……!思わず足が止まりかける。雑誌で何度も見た顔。秋久の隣で、親しげに笑っていた女性。胸が、ざわりと波打つ。どうして、ここに――。そんなことを私が考えても分かるわけがない。私は知っていても、向こうは知るわけがない。視線を合わせないように、私はわずかに俯き、そのまま通り過ぎようとした。コツコツというヒールの音を立てて私の横を通り過ぎ、私は小さく息を吐いた。「ねえ?」しかし、背後から声をかけられて、心臓が跳ねる。私のことだろうか? そう思うが、見える範囲にいるのは私だけだ。ゆっくりと振り返ると、やはりリサさんは私の方を見据えていた。じっとこちらを見つめるその視線に、逃げ場がない。「あなた……古都さんよね?」まさか私の名前を知っていると思わず、驚いて目を見開いた。三メートルほど離れていた私たちだったが、リサさんはまたヒールの音を立てながら私の方へと歩いてくる。その音がだんだん大きくなる。私とは全く違う、長い手足に華やかな顔が近づいてくる。「あの、どうして私のことを?」それでもなんとかそう聞き返すと、リサさんは微笑を浮かべた。「知らないわけないでしょう? だって秋久は私のものよ?」え?私のもの……? 言われた意味が分からず、私は彼女の瞳から視線を外せなかった。コンタクトなのかは分からないが、ブルーと黒が混じったようなきれいな瞳。「今、秋久が絶対にまとめたい仕事の商談相手が、地味な家庭的な奥様をご所望なの。秋久をサポートして、ただただ秋久に尽くせる女性なら、秋久が仕事に集中できるだろうって」最後は笑みはなく、呆れたような彼女を見ながら、今の言葉を理解しようともう一度繰り返す。秋久のうまくいっていない仕事の相手が、そういう古風
そう決めたはずだった。 それなのに、バーに向かうつもりで乗り込んだエレベーターの中で、俺はまた、古都にキスをしてしまっていた。「ごめん」その言葉が、ひどく空虚に響く。 古都が泣いていることに気づいた瞬間、胸の奥がずしりと重くなり、自分がどれほど身勝手で、最低なことをしているのかを、ようやく思い知らされた気がした。そっと指先で古都の涙を拭いながら、ふと、彼女を解放してやるべきなのではないか、そんな考えが頭をよぎる。 古都を苦しめてまで手に入れなければならない仕事に、果たしてどんな意味があるのだろうか。 そこまでして守る価値のあるものなのか――自分でも、答えが出せないまま。そう思った、はずなのに。近づいてくる古都の顔が、なぜかスローモーションのように見えた。 唇が触れても、俺は目を閉じることすらできず、ただその一瞬を受け止めるしかなかった。「……なにをされてるんですか?」低く、冷たい声が背後に響いた。 はっとして扉の外へ視線を向けると、そこにはスーツをきっちり着こなし、書類の入ったタブレットを手にした裕也が立っている。「裕也……ここでなにを?」問いかけると、裕也は淡々とした表情のまま、タブレットを軽く掲げてみせた。「明日の打ち合わせ資料に、少し変更がありまして。確認していただこうと思い、こちらまで来ましたが……」俺の行動をすべて把握していることが、時にはこれほど厄介に感じられるのかと、内心で舌打ちする。 その一方で、さっきまで起きていたことをうまく理解できていなかった俺にとっては、ある意味、救いのタイミングだったのかもしれない。そう思った瞬間、古都がすっと距離を取ったのが、はっきりとわかった。「すみません、私はこれで失礼します」静かにそう告げて、古都は、まだ扉の開いていたエレベーターへと再び乗り込む。「古都、待て。帰るなら――」呼び止めようとした俺の言葉を遮るように、彼女は振り返った。俺は、大友の次期総裁になるために、父の命令に従い、ひたすら仕事だけをしてきた。 けれど、たまに日本へ戻るたび、なぜか気になって、影から様子を見ていた女の子がいる。 それが古都だった。時折目にする彼女は、窮屈な大友家という檻に閉じ込められているように見えて、俺の中には、同情にも似た感情が芽生えていたのだと思う。俺と結婚すれば、そんな古都
Side 秋久目の前で、丁寧な所作でディナーを口に運ぶ古都を見ながら、俺は小さくため息をついた。 シンデレラのようにエスコートされ、ドレスを着て出かけること――それは、きっと古都の憧れだったはずだ。 小さい頃から、おとぎ話が好きで、目を輝かせながら絵本を読んでいたあの古都。けれど今、俺の前に座る彼女は、完璧な距離を保ち表情を崩さない。 古都は俺との立場を誰よりも理解していて、この結婚も、仕事の延長にすぎない――そう考えているのだろう。それも当然だ。 古都の父親は、大友家に仕えることを“生涯の使命”としてきた人間だ。 娘を利用することすら、ためらわないだろう。 俺の両親が持ちかけた政略的な話に、迷いなく頷いたのも、きっと「家のため」だ。古都にしても、本当は父の仕事を手伝いたいわけでもないことも、他のことをしたいこともあるだろう。それでも、父に従ってきたのだ。この結婚も断れなかったはず。この結婚が、俺のビジネスにおいて大きな意味を持っていることは事実だ。 今、俺はヨーロッパを中心に事業を展開しているが、あの国々では“家庭を持たない男”は信用されない。 「家族を守れない人間に、大きな取引は任せられない」 それが、彼らの常識だ。両親からも「そろそろ身を固めろ」と言われ、見合い話も絶えなかった。そんな折、五十代半ばの取引相手――ジョセフ・リードが、ワイングラスを傾けながら言った。「家庭を持たない人間は信用できない」その一言に、俺はつい口を滑らせてしまった。「結婚をするんです」と。隣にいた通訳も秘書も、ぽかんとした顔をしていた。 もちろん、その時点では誰か特定の相手などいない。その時まで、女性との付き合いもビジネスに有利になるからという理由で決めてきた。ゴシップ誌に取り上げられることもあった。 「本当か? 最近雑誌に出ていた、少し派手な彼女か?」最近雑誌に取り上げられたのはリサという女性だ。彼女は典型的なステイタスがいい男性に近づく女性で、俺とも何度か接触をしてきた。しかし、特別な関係ではないし、リサは他の男性たちとも雑誌に出ている。 もちろん、この話をしたら、よろこんで結婚をしてくれそうだが……。 しかし、ジョセフの言葉には、そんなリサと結婚する俺は信用に足りないと聞こえた。 その時、ふと頭に浮
秋久は静かに立ち上がると、ごく自然な仕草で、まるでそれがずっと前から当たり前だったかのように、私へ手を差し出してきた。 その動作にはどこにも迷いがなく、戸惑いを覚えながらも、私はその掌を取っていた。 触れた瞬間、じんわりと伝わってくる温もりに導かれるようにして、気づけば彼の腕に自分の腕を絡めていた。店の扉をくぐると、支配人やスタッフたちが深々と頭を下げ、無言のまま見送ってくれる。 一礼を返して歩を進めると、廊下の先、エレベーターホールに差しかかったところで、ふと気配に気づいた。 外は、いつの間にか雨が降り出していたらしい。 大きなガラス越しに見える街の灯りが、雨粒に滲み、ぼんやりとした光の帯となって揺れていた。「……雨」つい零れた言葉に、秋久は何も言わず、唇の端をわずかに上げる。 その微笑が、どこかあたたかくて、胸の奥にふわりとしたものが広がった。エレベーターの扉が開き、彼が一歩前に出る。 促されるように私もあとに続くと、足元がふわりと浮くような感覚が広がった。 表示パネルに目をやった瞬間、気づく。 エレベーターが向かっているのは――下ではなく、上の階だった。「秋久? どこに行くの?」上昇するモーター音が微かに耳を打つ中、彼はその視線を変えることなく、ただ一言、短く応えた。「もう少し、付き合ってくれ」「でも……」言いかけた声が、喉の奥でかすれた。 今はもう一緒に暮らしていて、夜になれば同じベッドで眠る関係になっているというのに――。 このエレベーターが向かう先が、ホテルのラウンジか、あるいは客室のあるフロアなのだと思うと、胸の奥が妙にざわめいた。 心を落ち着けようと深く息を吸い込んでも、早鐘のような鼓動は一向に収まらない。「ねえ、秋久――」そう名を呼んだ瞬間、彼が静かに振り返る。 そして、何の前触れもなく一歩近づいてきたかと思うと、両手で私の頬をそっと包み込んだ。 密閉されたエレベーターの中、まるで外界と切り離されたような静けさの中で、彼の唇がふわりと触れる。驚く暇もなく、ただその温かさに思考が止まった。それは、激しいものではなかった。 本当にただ、そっと――羽のように触れるだけのキス。 拒もうと思えば、できたはずなのに。 それでも私は、何も言わず、その一瞬のやわらかさに、そっと身を委ねていた。息が重なる
なんとかマナーも無事にこなせたかな――そう思って安堵した私は、グラスを置き、ふと窓の外に目を向けた。夜の街はキラキラと光を散らし、ガラス越しに映るビルの明かりが星のように瞬いている。こんな場所に自分が座っていることが、いまだに信じられなかった。しかも、向かいには秋久がいる。現実なのに、どこか夢の中のような感覚だった。ふと、自分の手に視線を落とす。白いクロスの上で、グラスの水滴がわずかに跳ね、そこへ別の温もりが重なった。驚いて顔を上げると、秋久の指がそっと私の手の甲をなぞり、優しく包み込むように握った。そのまま彼は私の左手を取り、薬指をキュッと摘む。「……秋久?」思わず名前を
秋久の軽薄な印象も、どこか堅苦しかった印象も、今の彼にはまったくなかった。ふたりきりのときに見せる軽口でもなく、かといってビジネスの顔でもない。ただ一人の女性を丁寧に扱う、大人の男性の所作――その自然な振る舞いに、胸が早鐘を打った。「いえ……あの、これからどこへ?」思わず尋ねると、秋久は穏やかに笑みを浮かべた。その表情が、何よりも優しい答えのように感じられた。そして、すぐに行き先が分かった。車が止まったのは、さきほどの店からほど近い、都内でも屈指のハイクラスホテル。その最上階にあるフレンチレストランの個室に案内されると、息をのむような夜景が広がっていた。磨き上げられた大きな窓
「いや、古都じゃなきゃダメなんだ」またその言葉。どうしてリサさんや他の令嬢たちではダメで、私ならいいというのだろう。地味で何も取り柄のない私だからこそ都合がいいのか、それとも別の理由があるのか――答えを知るのが怖くて、胸がざわめいた。「どうして?」気づけば、その問いが口から零れていた。私じゃなければならない理由。リサさんではダメな理由……どうしても聞かずにはいられなかった。「それは――」秋久が答えようとした瞬間、私は慌てて言葉を重ねた。「あっ、フランス語のこと?」まるで予防線を張るように、自分で逃げ道を作ってしまう。知りたいはずなのに、答えを聞くのが怖い。――何をやっているの、
それが必要なことだと突きつけられてしまえば、私はもう何も言い返せなくなってしまった。もしも何か一つでも失敗すれば、父が黙っているはずがない。――私は秋久に雇われている、そう改めて胸に刻み込み、自分を納得させるしかなかった。その夜、なんだかんだと理由をつけて片づけを長引かせ、できる限り時間を稼いでいた。食事のあと、秋久は「仕事をする」と言い残して寝室へ向かったが、どうやらそこで作業をしているらしい。もし本当に彼が一緒に寝るつもりだとしたら――そう考えるだけで心臓が跳ね上がり、私は落ち着きを失ってしまう。秋久が一度口にしたことは必ず実行する人間だと、誰よりも知っているのは私自身だ。この大きな







